三度目の平沼 -3-/真澄会会長(当時) 鈴木宏司(59期)

三度目の平沼 -3-
~生徒、教員、真澄会~

真澄会会長 鈴木 宏司

  このタイトルで書くのは三回目となる。一回目は平成21年度の第61号、二回目は23年度63号である。前二回の内容にプラスしたいと常々思っていたので、今回も同じタイトルを使うことにした。平沼の生徒として、母校の教員として、そして現在、同窓会の仕事に携わる中で、感じたこと、思い出すことを独りよがりの感傷に浸りながら書いてみた。

(1)生徒の時代(昭和34年4月~37年3月)

  二階の講堂で行われた全校生徒による生徒総会には大きな影響を受けた。全校規模のスケールにまず驚いたが、上級生の論客達が舌鋒鋭い白熱した議論を闘わせる様子にはなおビックリであった。会議の進め方、議論の闘わせ方、主張の仕方等、活きた勉強をさせられたように思う。入学した大学で、後年の大学紛争の前触れのような状況を経験したが、冷静に判断し対応できたのは、この生徒総会のお陰だと思っている。
  入学当初、一年生全員昼休みに屋上に集められ、応援団による応援指導が何日間か行われた。これは先生からの指示や生徒会からの呼びかけがあった訳ではない。毎年行っていることを今年も当たり前の如くやるというようなものであった。校歌はこの時にしっかりと頭に入った。応援団諸兄の統制の取れた、節度ある指導もあって、この行事に対しての反発はなかったと思う。逆に、私などは結構この時間を楽しみにしていたし、格好良い団長には尊敬の念を抱いたりした。廊下等で擦れ違った時には軽く一礼したものである。
  また、名物先生が数多くおられ、ユニークな授業が多かった。故大森賢三先生(県立教育センター創設に携わり、最後は厚木高校長にて退職)の物理の授業は、高校レベルを超えている内容を当然のように行う授業であった。難しくて音を上げたが、お陰様で大学に入ってからの1年目は大変楽であった。先生の薫陶よろしく、同期6名の者が物理学科に進学した。
  どう逆立ちしても敵わない、対抗心なぞ起きようのない優秀な同期生が大勢いた。昭和37年3月の進路状況は、浪人も含めて、横浜国大30、東京教育大15、横浜市大13、東京大12、お茶水大7、早大49、慶大17、…等である(百周年誌より)。しかしながら、今のような懇切、丁寧な進路指導を受けたり、先生方からハッパをかけられというような記憶はない。それぞれがしっかりと考え、個性豊かに、ゆったりと過ごしていたように思う。

(2)教員の時代(昭和58年4月~平成2年3月)

  県立高校で2校目となる平沼高校への異動は大きな転機となった。年齢なりの仕事がしっかりと待っていたし、また卒業生としての役割を陰に陽に期待されるプレッシャーのかかる立場であった。まさに鍛え直された7年間であった。思い出されることを二つ書いてみたい。

    (a)  田中恵一校長

  第19代校長の田中恵一先生は生徒から大変愛された校長さんであった。先生は平沼高校を定年でお辞めになられたが、その退任式ではオーケストラ部、吹奏楽部をバックに「昴」を涙ながらに熱唱した。これは式次第にはなく、ほとんどの教員が知らなかったハプニング的な出来事であった。大好きな校長先生に、校長先生の大好きな「昴」を歌ってもらおうと、生徒達が何日か前から計画していたものであった。
  先生が生徒と接する時の優しさ、誠実さ、そして、会議でよく口にしていた言葉、「それでは生徒が可哀相だよ」「生徒のことをまず第一に考えてくれ」「それは平沼らしくないな」…等を考えれば、上記のハプニングも当然なるかなと納得したものである。羨ましい限りである。

  先生は現役最後の年は県立高校長会の会長をされ、退職後は校長会初代事務局長として活躍されました。今は天国に居られます。

    (b)  五神嘉子真澄会会長

  第4代真澄会会長の五神氏は正に第一高女の典型のような方でした。聡明で控え目、それでいて凛としたところのある人でした。この凛とした態度は第一高女の人が共通して持っているものように思います。
  私は平沼在職中に校内理事として7年間ご指導いただきました。五神氏は平成23年にお亡くなりになりましたが、その時、真澄会ホームページに哀悼の意を込めて掲載した文をもって元会長の人となりを伝えたいと思います。



五神嘉子元会長を偲ぶ

  真澄会会長を20数年間という長きに亘ってお引き受けいただき、会の充実・発展に身を粉にして尽くされました五神嘉子様が、去る3月22日ご逝去されました。享年91歳でした。会員一同心よりご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。
  27、28日のお通夜、告別式には松沢神奈川県知事をはじめ大勢の方が会葬され、故人の人徳、交際の広さが偲ばれる盛大且つ温かみのある葬儀でした。真澄会からも野村元会長、山口前会長をはじめ多くの方がお別れに見えられ、高校からも現管理職の方、歴代の校長先生方等多数お見えになっておられました。
  30年近く前、私は教員として母校平沼にもどり、真澄会の校内理事をやることになった時の事です。五神会長のお宅と私の家は近くなので、理事会の後、会長自ら運転のベンツでよく送っていただきました。全くもって驚いたことは、私を降ろす時にわざわざ車を降りられて、“今日はお忙しい中、遅くまでお付き合いいただきありがとうございました。これに懲りずにまたよろしくお願いします。”と挨拶をされたことです。25期近くも後輩の若輩者にです。止めていただくようお願いしても“何といっても貴方は母校の先生なのですから”と聞き入れてもらえませんでした。困り果てて、最後には“もう乗れません”と 申し上げたところ、やっと降りるのを止められました。私は物凄い教えをいただいたと今でも思っております。
  「お彼岸のときに亡くなるのは寿命だ 」ということを聞いたことがあります。闘病生活の為か、生前見慣れたふっくらとした感じのお顔ではありませんでしたが、安らかなお顔でした。五神会長はまさに天寿を全うされたのだと思います。

平成23年3月30日                      真澄会会長 鈴木宏司



  間もなく卒業式である。卒業式らしい卒業式に毎年感動を覚える。今年も立派に成長した後輩たちの顔を見るのが待ち遠しい。卒業生にエールを送ると言いながら、逆に、彼らから英気を貰えるのが嬉しいのだ。祝辞を考えるのがチョッと辛いことではあるが。

「花橘 第65号2014年度」

2021年03月30日|公開:公開