学校ダンス「ファウスト」と横浜平沼高校
総括教諭 石郷岡 真
1.はじめに
筆者の勤務する神奈川県立横浜平沼高等学校は、1900年に創立された神奈川県高等女学校(後に神奈川県立高等女学校、神奈川県立横浜第一高等女学校、神奈川県立横浜第一女子高等学校と変遷)をルーツとする伝統校である(以下、全時期を通して平沼高校と略称する)。戦後は共学となり、2012年4月の入学生は112期生と称される。部活動と並んで、文化祭や体育祭、合唱コンクールなども盛んに行われるが、体育祭の演目の一つにダンス「ファウスト」がある。高校3年生女子のみが踊るダンスで、それまで着ていた体操着や組T(全生徒が生まれ月で四季の組に分かれて優勝を争うのが平沼高校の流儀であり、春夏秋冬のそれぞれの組がTシャツを作るのが慣例となっている。このTシャツを組T~くみティー~と称する)から白の長袖ブラウスと紺のジャンパースカートに着替え、靴下は紺色のハイソックスに、靴もローファーに履き替えて踊る。1927年から踊られてきた伝統の演目であると伝えられ注1、親子2代3代にわたって踊ってきた卒業生も少なくない。筆者の母も平沼高校の卒業生(42期)であり、「ファウスト」を踊ったのかもしれない。戦前の女学校で、何の目的でこのようなダンスを踊ったのか、誰が教えたのか、人々はそれを見てどう思ったのか。そのような事を考えていた折に、輿水はる海氏の論文『「ダンス「ファウスト」のルーツをさぐるー Me1in.Ba11ou.Gilbertと井口阿くり ー』注2と出会った。そこで本稿では輿水論文に導かれながら、このダンスは誰が考え、どうして平沼高校で踊られるに至ったのか、といった点について整理をしていくこととする。なお、本稿が検討する時期は諸資料の制約から、学校創立期から1940年までに限定した。戦後の共学化に伴う「ファウスト」の変遷等については、他の論考を待ちたい。本稿が平沼高校を理解するための道標の一つとなることを願いつつ。
2.学校ダンス『ファウスト』とは何か
(1)「ファウスト」の概略「ファウスト」は、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがその一生をかけて完成した長編の戯曲である。主人公のファウスト博士は、錬金術や占星術を使う黒魔術師、悪魔と契約して最後には魂を奪われ体を四散されるという奇怪な伝説、風聞の持ち主とされる。主人公の名前は「幸福な、祝福された」を意味するラテン語のfaustusに由来し、ドイツ語でいうFaustの意味(拳骨、砲)は偶然にすぎないという。
この作品がフランス語に翻訳されると、それを読んだ作曲家のシャルル.グノーによって「ファウスト 第一部」を源に全5幕のオペラが作曲され、1859年にフランスで初演された。なお1869年の公演にあたって第5幕の後にバレエ音楽が追加され、現在に至っている。ちなみに、「ファウスト」は日本で最初に上演されたオペラである。それが1894年11月24日であったため、日本では11月24日がオペラの日となっている。
このオペラの中で、特に人口に膾炙するようになったのはアリアやバレエ音楽であるが、同時に第2幕の終結部で演奏されるワルツも評判となった。このワルツは、フランツ・リスト編曲とグスタフ・ランゲ編曲の2つのピアノ曲でも知られている(ちなみに有名なリストの編曲版は1862年出版である)。次に紹介するM・B・ギルバート (Melin.Ballou.Gilbert) は、この美しいワルツを伴奏曲とするダンスを作った。これが今に伝わる学校ダンス「ファウスト」である。
(2)学校ダンス「ファウスト」のルーツ
輿水によれば、1894年からハーバード大学サマースクールで、後にはボストン体操師範学校でダンスを教えていたギルバート(1847~1910)が、ダンス「ファウスト」の作者である。ギルバートの没後に編集されたダンス作品集「コンテンツ オブ ボリューム I、II」の中のIに、音楽のタイトル「ファウスト ワルツ」、作曲「シャルル・グノー」、ダンスの名前「ファウスト ワルツ I&II」として掲載されている。音楽はC・クートが編曲したピアノ曲を用いたとされる。C・クートの詳細は不明であるが、オルガンやピアノの生伴奏に合わせて踊るダンスとして作られ、その際にクートの編曲版が使用されたのであろう。
このダンスを学んで日本に紹介したのが、秋田出身の井口阿くり(1870~1931)である。井口は1899年にアメリカへ留学し、スミス大学に入学した。その後、1900年9月末から1902年4月までボストン体操師範学校で過ごし、1902年にはハーバード大学サマースクールでギルバート作の「ファウスト」や「ポルカセリーズ」を学んだ。1903年2月に帰国すると、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)教授となり、国語体操専修科主任として授業を行った(1911年までに4期88名の卒業生を輩出して退職) 注3。この卒業生らが各校に「ファウスト」を広めたのである。なお、ギルバートはこの自ら考案したダンスを「エセティック ダンシング(Aesthetic dancing)」と命名しているが、井口はより体操的な意味合いを込めて「ジムナスティック ダンス(Gymnastic dance)」と呼んでいる。
*以後、本稿では学校ダンス「ファウスト」をすべて「ファウスト」と称する。
(3)日本における学校ダンスの広がりと「ファウスト」
永野順子氏、安広美智子氏らによれば、日本の学校におけるダンス(行進遊戯と呼んでいた)の導入は、戦前においては3期に分けて考えられるとする(「運動会における『学校ダンス』の現代的意義」・比較舞踊研究17巻ほか)。
1期は鹿鳴館時代、欧化政策に代表されるような西洋ダンスの導入期、(つまりカドリールなどに代表されるスクェアダンス類の導入期)である。もちろん方舞だけでなく環舞、円舞も導入された注4。また、1900年には小学校令と同施行規則とが公布され、行進遊戯が各学年を通じて実施される様になった。
2期が1903年以降の井口阿くりによる「ファウスト」や「ポルカセリーズ」の導入期である。山ロわか氏は、「当時の学校ダンスが軟弱視されていたのに対して、井口あぐり女史に依る Gymnastic danceは堅実であって、体育的である見地から、時代の要求にそった所があった。」とする注5。
その後1926年の改正学校体操教授要目で行進遊戯の中に「ポルカセリーズ」が入り、補助教材の一つとして「ファウスト」が示された。
そして3期が昭和前期を中心とする戸倉ダンスの広がりである。戸倉ダンスとは戸倉ハル氏が考案したダンスの総称である。主に日本の歌謡に振りを付けたダンスで、「荒城の月」や「田毎の月」などが今でも踊られている。
(4)「ファウスト」の演舞法
「学校ダンス『ファースト Faust』の演舞法」(比較舞踊学会「名曲を踊る研究会」報告:森下ほか)によると、「演舞法にはギルバートに近い舞踊的なものと井口によるスウェーデン体操的なものがある」とされる。また、「ファウスト100年の軌跡」の中で輿水は、「ファウスト、ポルカセリーズはそれまでのカドリール等の下肢中心の踊りから、頭、腕、手、胴体の全部を使う踊りへと学校ダンスの方向を変えた。二階堂トクヨ、高橋キヤウ、三浦ヒロ、戸倉ハル、伊沢エイ等の学校ダンス指導者は、新しい方向に理解を示した。」という。
ではその演舞法が、現在まで伝えられている演舞法と同一のものであるのだろうか。現在の高校生が踊っているファウストは、100年変わらずに受け継がれてきたダンスなのであろうか。少なくとも、
- 現在各校で踊られている「ファウスト」の振り付けには微妙な差異があると指摘されていること(長束保子氏~前平沼高校~によれば、平沼高校でも10年ほどの前の動画を見ると、現在とは微妙な変化があるという)。
- 筆者は2012年の秋に一部の学校の演舞を見る機会を得たが、一定の差異が見られたこと。
また、音源も疑問の一つであった。学習院女子高校の小野先生や聖園女学院の杉本先生などから、「戸倉ハル 学校ダンス名作集・4」を使用しているとの指摘をいただいていたが、平沼高校の音源は不明であった。ところが、2013年の1月になって、平沼高校の一角からLPレコード「戸倉ハル 学校ダンス名作集・4」を発見することができたのである。再生した結果、少なくとも平沼高校及び横浜共立学園共通の音源であると特定された。さらに幸いなことに、レコードジャケットには12頁に及ぶ解説書が添付されており、そこには「ファウスト」の踊り方も掲載されていた。
そこで、「ファウスト」冒頭四小節分の振り付け(前奏が終わった次の部分)をいくつか紹介する。AからDが戦前に発行された振り付け指導書の内容、EとFは現在踊られている振り付けを文章化したもの、Gがビクター音楽産業株式会社発行(JV-2091)の「戸倉ハル 学校ダンス名作集・4(中・高校編)」記載の演舞法である。私見によれば、戦前の振り付けの中では、DがG・E・Fにもつとも近いと感じられる。またEとGは同一である。そうであるならば、1929年の「行進遊戯」出版の持つ意義、「学校ダンス名作集」発売の意義がさらに注目されよう。ダンスを専門とする方々による分析と検討を待ちたい。
❋ギルバートの英文の和訳については、中川尚美氏(平沼高校)、R・ゴール氏(平沼高校)の協力を得た。また、その他の文章は筆者が現代語に置き換えた。なお、ワルツであるため、説明中、一拍目を1、二拍目は2、三拍目は3と表記した。
A. ギルバートによる振り付け(「ダンス「ファウスト」のルーツをさぐるーMe1in.Ba11ou.Giibertと井口阿くりー」より)
一小節目 | 両腕を横に広げ、拍に合わせて右に3歩左足を前にポイント。 |
二小節目 | バランスをとる。 |
三小節目 | 2で左足を横に出してバランスをとる。 |
四小節目 | 2で右足を横に出してバランスをとる。 |
B. 美濃部たかによる振り付け(「Faust,音楽と舞踊第2編」より)
一小節目 | (かかとをあげ、つま先で平均を取っておく。) 1で小さく右足を右に進める。 3で左足を引きつける。両腕を左右にあげ、手首は肘関節で波の形になるよう小さく動かす。 |
二小節目 | 同様に1歩右に進む。右腕は斜め上方の位置で左右同時に波形を描く。 |
三小節目 | 2で左足を横に出してバランスをとる。 |
四小節目 | 2で右足を横に出してバランスをとる。 |
C. 寺岡英吉による振り付け(「体育を主とせる学校ダンスの新教材」より)
一小節目 | 1で右足を右前方に踏み出す。同時に両腕を側方下方に伸ばす。 2と3で左足を右足に引きつけると同時に両膝を伸ばし、体を伸展させて両足つま先で立つ。 両手首を耳の高さに上げる。親指と中指で輪を作る。 |
二小節目 | さらに右足から始めて同様の動作を反復する。 |
三小節目 | 1・2は全小節と同じ動作。 3で右腕を側方から頭上へ、左腕を袴の紐の中央あたりに移動する。 同時に左足を右斜め後方に蹴り上げる。 |
四小節目 | 右腕をさらに頭上に十分伸ばし、頭を後方に曲げる。 左足をーで前方に下ろし、足先だけをつく。 2はそのまま、3で右足の所に引き寄せる。 |
D. 高橋キヤウによる振り付け(「行進遊技」より)
一小節目 | (事前に両腕を真横に伸ばしておく。右腕をやや上にする。右を見ておく。) 右足を右に踏み出し、3で左足を右足にそろえる。 |
二小節目 | 一小節目と同様にして右へ進む。右腕は前より高く左腕は下がる。 |
三小節目 | 1で右足を右に移し踏みつけて十分に体重を託す。 3で左足を浮かしたまま右足に引き寄せる。 腕は軽く動かし右腕は頭上に、左腕は体前になるように動かす。 顔は右方向を見る。 |
四小節目 | 1で左足は前に伸ばし、足先を軽く床に触れさせる。 |
E. 横浜共立学園の振り付け(同校の配布資料による)
一小節目 | かかとを上げて、1・2で右足を右に出し3で左足を引き寄せる。 この時、手は側に上げ、静かに上下に動かし、右上を見る。 |
二小節目 | 同様にして右へ進み、右手は前よりも精々高く、左手を精々低くする。 |
三小節目 | 1・2で右足を右に出して体重をかけ、3で左足を浮かす。 |
四小節目 | 1で左足を前にポイントし。右手を頭上に、左手は体前に移す。 |
F. 平沼高校の振り付け(「FAUST模範演技108期ダンス部」より)
一小節目 | 1で右足を斜め前へ移動、右腕は斜め上へ、左腕は斜め後ろへ位置する。 顔は右斜め上方を見る。 |
二小節目 | 右足を右へ踏み出し3で左足を右足に引きつける。 |
三小節目 | 右足を前で姿勢を維持する。 |
四小節目 | 右手をまっすぐ伸ばして頭上に上げ、左手は体前に伸ばす。 1で左足前方にポイント。 |
G. 戸倉ハル学校ダンス名作集・4掲載の振り付け
一小節目 | かかとを上げて、1・2で右足を右に出し、3で左足を引き寄せる。 この時、手は側に上げ、静かに上下を動かし、右上を見る。 |
二小節目 | 前小節同様にして右に進み、右手を前よりも精々高く、左手を精々低くする。 |
三小節目 | 1・2で右足を右に出して体重をかけ、3で左足を浮かす。 |
四小節目 | 1で左足を前にポイントし、右手を頭上に左手は体前に移す。 |
❋音源であるLPレコードについて
実は平沼高校では2種類のジャケットが見つかった(レコードは1枚のみ)。しかも、商品番号が異なっている。また、かなり古いレコードであることは確かだが、文字が旧字ではなく、LPレコードであるので戦前のものではない。(この曲の編曲は、服部正である。服部は1930年代から長く作曲家、編曲家として活躍をしており、ここからレコードの作成年月日を想定するのは難しい)。
ここから、次のような疑問が生まれる。今後の研究を待ちたい。
- 戦後のある時期からLPレコードを用いて踊ったのであるが、戦前から戦後にかけてはどのような音源を用いていたのか。
- レードが2種類あると言うことは、相当の期間、販売されていたと想定される。このレコードが戦後のファウストの普及に大きな影響を与えたのではないか。
- 後述するように、学習院女子高、聖園女学院、横浜共立学園でもこのレコードを用いている。これらの学校のファウスト開始時期と、レコード発売との関連性はあるのか。
3. 平沼高校と「ファウスト」
(1)「平沼高校における「ファウスト」の歴史校誌「花橘」、「校友時報」、「学校時報」、「周年記念誌」等を読み込み、戦前の平沼高校の体育祭、ダンス等に関係する記事を抽出したのが、別表「平沼高校・学校ダンス年表」である注6。ただし、花橘の第1号は1910年の発行であること、花橘11号から19号は欠本となっているため1916年から1924年の基本資料を欠いていること、1941年以降の資料は現存しないことを申し添える注7。
平沼高校・学校ダンス年表
1901(明治34)年 | 5/5 開校時は大型オルガン1台のみ 5/13 体操教師がカドリールの練習をさせた *花橘4号(1912年6月発行)掲載の「足立ヤス」談話による |
1910(明治43)年 | 5/28 第10回学芸奨励会 ジャーマンカドリール ジャーマンランサース 高3女のランサースはオルガンの伴奏との記載あり |
1911(明治44)年 | 5/28 第11回学芸奨励会 ナショナルガード カドリール |
1912(明治45)年 | 5/28 第12回学芸奨励会 コチロン |
1913(大正2)年 | 6/25 第13回学芸奨励会 ナショナルカドリール |
1914(大正3)年 | 6/25 第14回学芸奨励会 ダブルランサース 11/23 父母懇話会で相澤英次郎校長の講話 「高木男爵から過去40年間に日本人の寿命が7年余短くなった。 徴兵検査でも背の曲がった者が多くなったとか或は体重が減った とかいふ風にだんだん弱くなって来たといふお話がございました。 つきましては体育奨励の為に運動会を催したいと思っております。 本年は御諒闇の為見合わせましたが来年は挙行する積でございます。」 |
1915(大正4)年 | 5/5 第1回体育奨励会 ダブルカドリール ダブルランサース シングルランサース カレドニアン コレジアンランサース 女四「三輪はる」の文章にはポルカセリーズが出てくる |
1916(大正5)年 | 5/5 第2回体育奨励会 ダンス不明 この年の写真としてカドリールを踊っているものが残っている |
1917(大正6)年 | 5/5 第3回体育奨励会 ダンス不明 |
1918(大正7)年 | 5/5 第4回体育奨励会 ダンス不明 |
1919(大正8)年 | 横浜大火により体育奨励会開催せず |
1920(大正9)年 | 不明 |
1921(大正10)年 | 5/5 第5回体育奨励会 ダンス不明 |
1922(大正11)年 | 10/28 第6回体育奨励会 ダンス不明 |
1923(大正12)年 | 関東大震災で体育奨励会開催せず |
1924(大正13)年 | 10/24 第7回体育奨励会 |
1925(大正14)年 | 11/3 第8回体育奨励会 バタフライ |
1926(大正15)年 | 10/15及び10/18 運動会 セブンジャンプ ペニシャンゴンドラ ミニユエット ポルカセリーズ カドリール |
1927(昭和2)年 | 10/17 県主催女子中等学校競技大会 ダンスに76名出場パイプオブパン 11/2 第10回体育大会 5年ファウスト(全学年あり) 全校カドリール |
1928(昭和3)年 | 11/12 第11回体育奨励会 ファウスト他のダンスもあり |
1929(昭和4)年 | 不明 |
1930(昭和5)年 | 5/11 30周年記念体育大会 ミニユエット ファウスト パピオン メーポールダンス |
1931(昭和6)年 | 5/31 体育大会 ファウスト |
1932(昭和7)年 | 6/9 体育大会 1年セ~ラーダンス 2年ミニユエット 3年ポルカセリーズ 4年パンスキー 5年ファウスト |
1933(昭和8)年 | 6/4 体育大会 1年フレンチリール 2年ハイランドプリング 3年マヅルカ 4年紅バラ 5年ファウストグループワルツ |
1934(昭和9)年 | 5/27 体育大会 1年コサックダンス 2年さあさあやろう 3年マヅルカ 4年ひなげし 5年ファウスト グランドママワルツ |
1935(8召和10) | 5/26 体育大会 1年お人形さん 2年ハイランドプリング 3年セーラーボーイズ 4年日本の少女 5年ファウスト モーメントミュージカル 11/26 県下中学校体育大会 4・5年ファウスト |
1936(昭和11)年 | 6/1 体育大会 1年フレンチリール 2年カマリンスカヤ 3年マヅルカ 4年ひなげし 5年ファウスト フラワーワルツ ※ダンス名について クワドリル、ポルカセリアスは カドリール、ポルカセリーズに統一した。 |
1937(昭和12)年 | 6/13 体育大会 1年セブンジャンプスとコサックダンス 2年ハイランドプリング 3年マヅルカ 4年セーラーボーイズとポルカセリーズ 5年ファウストとモーメントミュージック |
1938(昭和13)年 | 11/21 体育大会 1年リチカ 2年マヅルカ 3年荒城の月 4年ポルカセリーズ 5年ファウスト全校愛国行進曲 *この年から行進遊戯、唱歌遊戯となり ダンスという名称消えた。 |
1939(昭和14)年 | 10/22 体育大会 1年幼き頃の思出 2年マヅルカ 3年荒城の月 4年ポルカセリーズ 5年ファウスト全校山は呼ぶ |
1940(昭和15)年 | 10/20 紀元2600年奉祝 創立40周年記念体育大会 1年幼き頃の思出 2年マヅルカ 3年荒城の月 4年クワドリール 5年ファウスト寧楽の都 |
この結果は、以下のようにまとめることができよう。
- 平沼高校では創立期より学校ダンスを取り入れてきた。初期はカドリールなどのスクェアダンスが主流であった。
- 1927年より1940年までは毎年、体育大会等で「ファウスト」を踊った。しかも最高学年のみが踊る特別なダンスとして位置づけられた。
(2)1927年、「ファウスト」の始まり
前節で確認したように、平沼高校では創立期より「カドリール」「コチロン」が踊られていた。こうしたスクェアダンスは男性体操教諭が指導した(周年記念誌には、「松野先生、星野先生、柿沼先生がダンスを指導した」という回顧談が掲載されているが、この3人は全て男性教諭である)。しかし井ロは男子学生を教えていないのであるから、「ファウスト」と「ポルカセリーズ」を男性教諭が教えたとは考えにくい。そこで、平沼高校に赴任した東京女子師範学校出身者が、「ファウスト」と「ポルカセリーズ」を教えたと考えるのが自然であろう。筆者は、平沼高校の1915年体育奨励会で「ポルカセリーズ」が踊られた可能性が高いと考えている。プログラムには「ポルカセリーズ」は明記されていないが、当時の4年生は「ポルカセリーズを踊った」という談話を残している。また「体操及びダンス」という内容不明の演目が存在している。だとすれば、この「体操及びダンス」が、「ポルカセリーズ」だと考えるのが自然である。さらに、17期生1919年卒)が「ファウスト」を踊ったという証言もある。このことから、1914~15年頃、「ファウスト」及び「ポルカセリーズ」が平沼高校に伝わっていた可能性が高い。ただしこれは体育の授業やレクリエーションの一環として踊ったのであろう。学芸奨励会や体育奨励会では披露されていない。記録を精査してみても、平沼高校に「ファウスト」が完全に定着したのは、1927年の第10回体育大会からだと断言して良い。では、それはなぜであろうか。
一つ目の要因は、文部省の制定した学校体操教授要目である。これは現在の学習指導要領に似たもので、各学校・各学年での授業内容が明記されたものである。これによると、1913年に学校体操教授要目が制定された時、「ファウスト」等のダンスはこの要目に明記されず、ただ「行進遊戯」とのみ記載された。しかし1926年の第1次改正により、行進遊戯の高等女学校4年生に「ポルカセリアス」「ミニユエット」が明記され、さらに補足として「ファウスト」ほかが「改正学校体操教授要目の精神と其実施上の注意」の「女子中学校に於ける行進遊戯」に記載された注8。そして1936年の第2次改正では、高等女学校4・5年及び師範女学校4・5年の配当に、「カドリール」などと並んで「ファウスト」が明記される(ポルカセリーズは高等女学校2、3年及び師範女学校1年等に配当)。
二つ目の要因は演舞法の普及である。筆者の手元には今、いくつかの「ファウスト」の踊り方解説がある。輿水論文に掲載されているギルバートによる振り付け、現在の平沼高校で踊られている振り付け、美濃部たかによる振り付け、寺岡英吉による振り付け、高橋キヤウによる振り付け等である注9。この中で、美濃部たかの振り付けが記載された「Faust、音楽と舞踊第二編」(日本体操遊戯研究会)の出版が1921年であること、寺岡英吉の「体育を主とせる学校ダンスの新教材」(宝文館)の出版が1922年であること、高橋キヤウの「行進遊戯」(右文館)は1929年の出版であることから、1920年代に「ファウスト」の振り付け書は広く一般に出回っていたと断じて良いだろう。また、写真入りで解説している寺岡の解説書は、そのモデルが男性ダンサーである。つまり女性のためのダンスとして導入された「ファウスト」は、1920年代までに男性体操教育者・男性ダンサーによる解説書が出るまでに普及していたともいえる。
これを整理すると、
- 1926年の学校体操教授要目第1次改定で「ファウスト」が正規の遊戯として文部省に認定され、導入を後押しされた。これには、従来の優雅なダンスからrGymnastic dance」への変換を求める時代の要請があった。平沼高校もそうした潮流に合わせ、ダンスとしては難易度が高く高学年に配当された「ファウスト」を選んだ。
- 平沼高校ではすでに井ロダンスに馴染みがあったために、1920年代の「ファウスト」の普及がより効果的な導入を可能にした。
そのほかに副次的な要因として、平沼高校のクラス編成の問題も看過できない。平沼高校の前身である「高等女学校」が、併置されていた「女子師範学校」と分離したのは1927年4月だった。1915年の体育奨励会の記録を見ると、「高女1~4年と補習科・女師1~5年・師1~4年・付属尋常小1~6年・付属高等小1~3年」という多くの学年・学級が体育奨励会に参加している。それが、師範学校の転居によってクラス数が減り、プログラム作成に余裕が生じた。そこで、全校ダンスとしての「カドリール」、5年生ダンスとしての「ファウスト」が可能になった可能性が強い(ちなみにその後の平沼高校では、5年生は2種類のダンスを踊るようになっている)。
4. 他校における「ファウスト」の実施状況
永野、安広は「かつての学校ダンスがどのような形で現代の教育現場に引き継がれているのか、その現代における教育的な意義は何か」を探るために、首都圏の高校8校に聞き取り調査を実施した注10。その結果の抜粋が、以下の一覧である。都立白鴎高 | 「カドリール」 |
東京女学館高 | 2年「ファウスト」、3年「カドリール」 |
湘南白百合高 | 3年「カドリール」 |
北鎌倉女子高 | 1年「田毎の月」、2年「メイポールー薗の花ー、3年「カドリール」 |
千葉女子高 | 2年「花畑の朝」、3年「ファウスト」 |
横浜雙葉高 | 3年「田毎の月」1950年開始 |
桜蔭学園高 | 高3年「みのり」、中3年「マズルカ」 |
豊島ヶ岡女子高 | 「みのり」ただし体育祭などでは発表しなくなっている |
この調査に平沼高校は含まれていないこと、調査該当校以外でも「ファウスト」や戸倉ダンス等が踊られている知見を得ていること(インターネット上では、雙葉「花の歌」・湘南白百合、北鎌倉女子「カドリール」・共立女子、武蔵野女子学院「荒城の月」・跡見、山脇「ペルシャの市場」・跡見、山脇、実践女子、福岡女学院「メイポール」・聖園女学院「ファウスト」という情報があった。ちなみに跡見女学院の1942年の体育鍛錬大会では、2年生が「ポルカセリーズ」、3年生が「マズルカ」、5年生が「カドリール」を踊っていることがホームページ上でわかる)を鑑み、筆者は独自の調査を実施した。神奈川県内を中心としてホームページなどで状況を確認し、学校ダンスとして「ファウスト」を踊っている可能性のある学校には、直接調査票を送付して回答をいただいた。以下にその調査結果を示す。なお学校名に続く( )内には、ご協力いただいた先生のお名前を記した注11。
- 学習院女子高(小野先生)
3年が「ファウスト」上は体操着
下は制服スカート
1934年頃より踊っている
戸倉ハル学校ダンス名作集レコードを使用
他の学年もダンスを踊るが井口、戸倉系ではない
振り付けは平沼と違いがあるようである
生徒は真剣に踊っている
親子2代3代もいる
- 聖園女学院高(杉本先生)
3年が「ファウスト」ジャンパースカート
白の長袖ブラウス
裸足に白のバレーシューズ
1946年(創立当初)から踊っている
戸倉ハル学校ダンス名作集レコードを使用
卒業前最後の学年発表として意識が高い
- 横浜共立学園(森先生)
3年が「ファウスト」
上は白体操着半袖
下は紺の制服スカート
1942年頃より踊っている
長年10月の体育祭で踊っている
オーケストラの演奏
間違って踊ると大学不合格のジンクスあり
- お茶の水大学付属高(土方先生)
1973年までは「ファウスト」を制服姿で踊っていた
(その後2009年1回だけ復活)
1903年秋には踊った記録あり
観客2,000名
(出典は風俗画報1903年12月10日発行279号」)
1906年には陸軍戸山学校で傷病兵慰問のために
踊った記録あり
- 千葉女子高(佐藤先生)
3年が「ファウスト」
2年「花畑の朝」
1年「スタンドアップ」
白半袖体操服
制服スカート
1903年から踊っている
体育祭で実施
観客も多数来校
千葉女子高校オーケストラ部の演奏CDを使用
- 横浜平沼高
3年女子が「ファウスト」1927年に体育祭で踊り始める
1992年中止(校舎建て替えで体育祭中止)
2002年有志により体育祭後夜祭で復活
2003年より体育祭種目となる
紺のジャンパースカート
白長袖ブラウス
革靴
音楽は戸倉ハル学校ダンス名作集レコードを使用していたことが判明
以上二つの調査から、今もファウストや戸倉ダンスを踊っている学校の共通点などを以下に整理しておく。
・歴史の古い伝統校、女学校が多いこと。
・現在も女子校である学校が多いこと。
・ダンスはスカート姿で踊ること。
・スクェアダンスや戸倉ダンスとファウストが共存している学校があること。
・保護者や地域には概ね評判が良いこと。
・共学校で踊っている事例は平沼高校しか確認できていないこと。
これらをどう理解すれば良いか、今後の検討課題は何か等については、5の「まとめ」にゆずることする。
〔附記〕
文部省が発行した「全国高等女学校・実科高等女学校二関スル諸調査」によれば、1927年に神奈川県内にあった女学校等は22校、1936年には31校を数える。それらをルーツとする高校について悉皆調査を実施したわけではないが、管見の限り、「ファウスト」を踊っている学校は横浜共立学園、平沼高校のみである。
5. まとめ
輿水は「『ファウスト』はギルバートの作った踊りの構成の適度な緩急、グノーの音楽、踊りの題名があいまって、女学校の運動会の花形として定着した。時代が移るにつれて優雅さが加わった。」とする。同時に「『ファウスト』は、女学校の最高学年のみが踊ることのできる特権であり、1年生の時から上級生の踊りを見続け、最終学年の卒業前の運動会で一生に一度の晴れの舞台で踊った。学校により、多少の個性を持ち、各女学校の伝統となった。」とも書く注12。 4.で示した調査結果からみても、この輿水の指摘は極めて妥当だといえよう。東京女子師範学校出のエリート女子教員が、最先端のダンスを各地の女学校に伝えた。東京女子師範学校や華族女学校で踊られるダンスの受け入れは、女学生にとって大変名誉あることだったろう。しかも曲想はTempo di Valse(ワルツのテンポで)→Cantabile (歌うように) → Tempo di Valseの緩急のくっきりとした3部構成からなり、ウィンナーワルツの香りを残したメロディラインは切なくも美しく感じられた。ダンスも乱暴な動きは一切無く、腕や足のラインをしっかりと出しながらゆったりと上品に踊る。特別な女学校の優秀な女学生が踊るこの新しいダンスは各地で好評を博し、見られることによってさらに磨かれていった。従前のカドリールやコチロンなどと異なり、女学生のみのダンスという点も、「自分たちは選ばれて踊っている」という女学生の自意識を刺激したに違いない。さらにダンスの難度とあいまって、「最高学年のみが踊ることを許されるダンス」というプレミアに変化した。そうして、1920年代以降、「ファウスト」は女学校や女子師範学校の中で大きな市民権を持った、と考えて良いのではないだろうか。
しかし、戦中の暗い世相は学校ダンスを萎縮させた(「ファウスト」の題名が「希望」に変えさせられるといった中で、学校ダンスが生き残ったのは戸倉ハル氏の行動力のたまものである。詳細は先行論文を参照されたい)。そして戦後の共学化と民主化の波の中で、「ファウスト」は踊られなくなっていった。そうした中においても、継続の努力を惜しまなかったいくつかの学校では、今でも「ファウスト」が踊られているのである。
平沼高校の事例も含めて、今後検討すべき課題が多々残されている。以下にまとめてみたので、今後の調査研究の進展を期待する。
- 全国のどこのどのような学校で踊られてきたのか、現在でも踊られているのか、を調査することが大切である。分布や校種の特定は、貴重な検討材料となる。
- 音源の特定も大事なポイントであろう。「戸倉ハル ダンス名作集レコード」を用いているのであれば、その発売と普及との関係はどのようなものか、検討に値する。
- 振り付けの変遷及び各校での差異はどの程度のものなのか、比較検討が必要である。差異があるとすれば、時代や地域との関係性を検討しなくてはならない。
- 戦後も継続された学校と、断絶した学校との違いはどこにあるのかについて、検討を要する。女子校だから継続されたのか、共学校では不可能だったのかという点を明らかにする必要がある。
- 現在でもスクェアダンスを継続している学校、戸倉ダンスを踊っている学校と、「ファウスト」を踊っている学校の違いはどこにあるかが問題である。今後のダンス教育の方向性にも関わる検討課題である。
- 平沼高校では1941年以降の資料が欠落し、戦時中の様相が不明である。卒業生に対する聞き取り調査などを実施することが、喫緊の課題である。
平沼高校では、3年女生徒のある者はうれしげに、ある者は仕方なく、しかしさほど嫌がらずに「ファウスト」を踊る。普段、ヒップホップダンスなどを愛好する18歳の少女たちが、わざわざ制服に着替えて踊る。それを見守る保護者や卒業生の目は大変優しい。伝統という美辞麗句だけでは語れない魅力が、そこにはあるのだろうか。
さて、平沼高校の戦後の歩みを振り返った時、共学化した新制高校に「ファウスト」を定着させた人物がいることに気づく。その人物を紹介させていただくことで、本稿を閉じたい。その人物とは、1947年に平沼高校体育科教諭として赴任され、1994年まで平沼高校一筋で教鞭をとっていらした田村輝子先生である。先生は日本女子体育大学の卒業生で体操を専門となされ、後に神奈川県体操協会会長の重責を担われ、神奈川ゆめ国体の成功に尽力されたことでも知られる。筆者は生前の田村先生と面識もなく、論ずる資格に欠けるためここで筆を置くが、田村先生と「ファウスト」との関わりを明確にすることが、戦後の平沼高校と「ファウスト」との関わりを明らかにすることである。田村先生知悉の方による調査研究の進捗を期待する。
❋本稿脱稿後、いくつかの新らたな知見を得た。「補遺」として別稿にまとめたので、関心のある方は一読されたい。
〔注記1.~注12.を以下に記載した〕
- 注平沼高校では入学すると校史を学ぶ。その際の教材「県立高女から横浜平沼へ~lOO年の歩み~」51頁には、『体育奨励会で初めてダンス・ファウストが踊られたのは1927年』と明記されている。
- 比較舞踊研究10巻1号(2004)所収。なお、比較舞踊学会事務局の安広美智子氏(聖徳大学)には、本稿執筆に関して多大なご教示をいただいた。
- 東京女子高等師範学校の歴史と卒業生の調査にあたっては、根岸敦子氏・渡邊由紀子氏(お茶の水女子大学OG)の協力を得た。女子高等師範学校時代の井口の教え子で、平沼高校に赴任した人物は、少なくとも7名ほど確認できる。
- 輿水はる海「ダンスの変遷史(一)」(幼児の教育78-11)によれば、1887年天長節の鹿鳴館における舞踏会では、ポロネーズ、カドリール、ワルツ、ポルカ、カレドニヤンス、マズルカ、ランサース、ギャロップなどが踊られたことが論証されている。
- 「日本に於ける舞踊の歴史について」(長崎大学教養部紀要1968)所収。また、1904年が日露戦争、1914年が第一次世界大戦であるという時代背景にも注意を払う必要があるだろう。
- このほかに、1期と5期が「コチロン」「カドリール」を踊ったという記載、17期が「ファウスト」を踊ったという記載、30期が「カドリール」「ファウスト」を踊ったという記載がある。戦後については今回の調査対象としていないが、少なくとも1950年は「スクェアダンス」、1952年は「荒城の月」「青きドナウ」を踊っており、「ファウスト」は踊っていない(写真などが現存する)。そのため、1927年以降「ファウスト」は断続的に踊られてきた、と表現するのが正しい。
また、神奈川県立希望ヶ丘高校(旧制第一中学校)の記録によれば、1957年の希望ヶ丘60周年行事で「ファウスト」を踊っている。戦後でしかも共学校による「ファウスト」演技の意味合いについては、別途検討の必要がある(希望ヶ丘高校・嘉村均氏のご教示による)。 - 体育奨励会もしくは体育大会は1915年からスタート。途中、横浜大火の1919年や震災の1923年は実施していないが、ほぼ毎年開催している。学芸奨励会は1901年に始まり、体育奨励会がスタートするまでは遊戯も実施していた。
- 「改正学校体操教授要目」(都村有為堂出版部1926)64~65頁、「改正学校体操教授要目の精神と其実施上の注意」(日本体育学会1926)264~265頁所収。
また中野祐子「日本体育会・赤間雅彦の舞踊教育ー大正・昭和前期においてー」(島根大学教育学部紀要第20巻)には、これらの変遷を簡潔にまとめた表が掲載されている。 - 様々な演舞法については、「学校ダンス『ファーストFaustの演舞法」(比較舞踊学会「名曲を踊る研究会」報告:森下ほか)の教示による。寺岡英吉については、森下論文中の一部に「平岡」との誤記がみられる。これは「寺岡」が正しい。
また、高橋キヤウの「行進遊戯」(右文館)のコピー入手等について、土方伸子氏(お茶の水女子大学付属高校)に多大なご協力をいただいた。さらにその他資料の収集にあたり、鈴木智子氏(平沼高校OG、お茶の水女子大学4年生)、奥村優氏(平沼高校OG、東京女学館大学2年生)の協力を得た。 - 「運動会における『学校ダンス』の現代的意義」・比較舞踊研究17巻
- 本稿執筆(特にお茶の水女子大学付属高校及び学習院女子高校に関して)にあたっては、高田智子氏(明海大学)の協力を得た。
- 「ファウスト100年の軌跡」所収。
筆者は平沼高校に勤務した2007年より、毎年「花橘」に寄稿してきた。それは「拝観志納」と題したエッセイで、主にその年の博物館や美術館における特別展、仏像、フィギュァ、歴史小説、歴史ドラマ等々を取り上げたシリーズであり、3~4頁程度の気軽な文章である。しかし、本年は「花橘」63号への寄稿にあたって「ファウスト」を題材に選び、長々しい文章を書いた。これにはいくつかの理由がある。
一つは、これから大学などに進学して学びを深めていく高校生諸君に、テーマの切り口、疑問点の調べ方、論証の仕方、論理の構成等々の論文作成の初歩を示したいと考えたからである。本稿は大変稚拙で、とても論文とは呼べぬ文章ではあるが、特に社会科学を学ぼうとする高校生諸君には、是非一読して欲しい。そのために平沼高校に関係の深いテーマを選んだつもりである。
二つには、「花橘」61号掲載の宮崎論考(本校地歴・公民科教諭による)に啓発され、「花橘」の「研究紀要」としての側面を充実させたい、と考えたからである。従前の通り、「花橘」にクラスの紹介頁や文芸の頁があることは大切であるし、「特集」を組んで高校生諸君が執筆することは大変すば らしい。それにプラスして、教員や高校生諸君が自己の研鑽や関心に基づいた研究成果の一端を紹介できるのであれば、さらに秀逸な校誌になるであろう。
三つには、平沼高校の歴史教師であり、母の母校に勤める私には、「ファウスト」の歴史を後世に伝える義務があると感じたためである。あと20年早くこの調査を行っていれば、実際に戦前の殺伐とした中でファウストを踊った卒業生たちの生の声も聞けたであろうし、戦中から戦後の実態も記録できたであろう。また、田村先生のお考えや業績を詳細に記録できたはずである。だからこそ、今の時点で明確にできる部分をまとめておき、後の平沼関係者の手引としたいと考えた。
本稿が今後の「ファウスト」指導、校史教育の実施においてわずかなりとも参考になるならば、また高校生諸君の勉学の一助になるのであれば、望外の幸せである。