2010年2月13日投稿
初代校長・新原俊秀先生(写真)
~前半生を中心に~
真澄会会長 山口 精一
出会い
一昨年秋、真澄会事務局から自宅に電話が入った。新原初代校長の曾孫さんが見えているという。以下は電話を通じての話の概略である。曾孫さんは井上信也氏、新原校長の長女・國さんの孫にあたる。たまたま真澄会のホームページを見つけ、歴史資料展示室があることを知り、こちらに来る用事があったのでぜひ拝見したいと思い立ち長崎から出てこられたという。島巡校長(当時)が案内してくれたそうで、大変感激されていた。
帰郷後、井上氏は史料の調査をしてくださると共に、新原家にも連絡していただいた結果、新原家の当主・秀紀氏(新原校長の曾孫さん)から貴重な史料が送られてきた。
こうして井上氏の本校訪問を発端に、新原家と真澄会の交流が始まったわけだが、奇しくも歴史資料展示室が取り持った出会いといってよいだろう。本稿では、これら史料を基に新原校長の前半生を中心に綴ってみたい。
宮崎・佐土原藩
新原俊秀(にいはらとしひで)校長は、安政6(1859)年2月23日、渋谷善道(よしみち)家の三男として佐土原(さどわら)藩追手(現・宮崎市佐土原町)に生れた。7歳にして追手郷学所に学び、10歳で卒業。その後、新原秀治家に養子に入り、新原俊秀となる。明治6(1873)年、14歳で河南小学校に入り洋式の算術などを修め助教諭を務めた。翌年県立宮崎学校が設立され率先入学。翌8年には成績優秀につき県庁の学務課に雇用され各小学校を巡回したりしている。勉学に励みながら教鞭もとるという時期だったようだ。この間9年には熱病が流行し両親を相次いで亡くすという悲運にも見舞われている。
同年12月、宮崎学校の優等生9名が、宮崎県の野村学務課長に引率されて上京、横浜~新橋間初めて汽車に乗ったと記している。そして翌10年1月津田仙が主宰する学農社に入学、2年間修学し明治12(1879)年12月帰省する。
同志社英学校入学
明治14年(1881)年9月、京都に至り新島襄が創設した同志社英学校に入学、本科3年に編入された。22歳であった。どういう動機で同志社英学校に入ったのかは定かではない。何か転機があったのだろうか?翌年2月、京都第一教会で新島襄より洗礼をうける。クリスチャンとなった新原校長はその後精力的に各地を伝道している。
明治17年6月本科卒業。同志社礼拝堂で卒業証書を受け代表して謝辞を述べた。新原校長はこの後さらに神学科に進んでいる。翌年神学科を終えるが、同志社大学のホームページを見ると、同年「校友会」の前身「アルムニ会」が創設され新原校長が書記に選出されたという記事が載っている。
結婚・上京・文部官僚
各地を伝道後、帰郷した新原校長は、明治19(1886)年7月に養父新原秀治の長女・常(つね)と結婚し共に上京。一旦埼玉県上尾市の原市教会に入るが、翌年再び東京に戻り文部屬判任官四等として普通学務局配属となる。こうして新原校長は、本郷に居を定め、いよいよ文部官僚としての道を歩みだすことになる。
明治24(1891)年 | 32歳 | 師範学校中学校教員検定試験委員 |
明治25(1892)年11月 | 33歳 | 普通学務局第三課長 数年にわたり関東地方を中心に各地を学事巡視 |
明治32(1899)年6月 | 40歳 | 愛媛県師範学校長 東京外国語学校仏語科修了、小学校教員検定委員 |
神奈川県立高女誕生
明治33(1900)年に入ると、いよいよ本校が設立に向かって動き出す。つまり10月10日に神奈川県高等女学校設立が認可され、翌月、岡野欣之助氏の寄付による橘樹(たちばな)郡保土ヶ谷町岡野新田3000坪の敷地に校舎が起工された。従って本校は、10月10日を創立記念日にしている。翌明治34(1901)年は、本校開校の年であり、新原校長赴任の年である。さまざまな動きがあるので年表の形にしてまとめてみよう。
2月9日 | 愛媛県師範学校長新原俊秀、神奈川県高等女学校初代校長に就任。42歳。(年俸千円) |
4月4日 | 職員服務心得、生徒服装規定など制定 |
4月7日 | 3年生の入学試験横浜商業学校で実施 |
4月14日 | 2年生の入学試験本校で実施 (1年生は定員に満たず無試験で入学) |
4月 | 横浜新市制により地名を横浜市岡野町と改称 |
5月1日 | 入学式挙行、職員14名、生徒178名 |
5月5日 | 開校式挙行、この日を開校記念日に制定 |
5月7日 | 神奈川県立高等女学校と改称、授業開始 |
こうして本校は、県立高女としてスタートするが、新原校長の当初の業績は、当時の高等女学校ではことごとく選択科目であった英語を必須科目としたことと、当時丸髷・広帯の着流しの奥様姿が女教師の服装であったにもかかわらず職員生徒の服装規定には洋服または短袖の改良服に着袴と定めたことが挙げられよう。当初短袖は男のようで不評であったが、後には全国に普及するようになる。
ところで、前述した井上信也氏の祖母井上國(くに)さんは、新原校長の長女で本校の大先輩である。明治40(1907)年3月、本科第5期生として卒業している。一時期父子共に在校していたことになる。
その後、本校は明治40年に女子師範学校、明治43年に付属小学校が併設され、いずれも新原校長が学校長を兼務している。
大正2(1913)年5月31日、新原俊秀校長は12年間にわたる本校の校長職を依願退職した。54歳であった。
6月9日には、校庭で師範、高女、付属小学校の職員生徒一同と送別の
記念撮影を行っているが、これがその貴重な写真である。
傘 寿
退職後の新原校長の動静は、未だ調べが行き届いていないので別の機会に譲りたい。晩年は、渋谷区幡ヶ谷で余生を過ごされていたようだが、昭和13(1938)年5月4日、2ヶ月余りの闘病の末亡くなられた。79歳、昔風に言えば傘寿であった。
『真澄会誌三十四号』(昭和13年11月13日発行)に追悼文が載っているので抜粋する。
先生母校に着任あそばさるゝや
一意専心寝食を忘れて
校舎の建設職員の糾合等の創立事務に鞅掌せられ
爾来十有二ヶ年一身を捧げて
鋭意子女の教養と善美なる校風の樹立とにお盡し下さいました
今や縣下に誇る栄ある傅統と堅実なる校風とを有する母校を
今日の隆昌にお導き下さいました
かくして先生は遂にみまかりたまひぬ
されど先生のみ心は神もしろしめす身は死してもみ心は死せず
あわれ先生の霊よ
永に私共の護りとなられて安らけくおはしませ
新原俊秀初代校長は、生誕の地・宮崎市佐土原町の「前牟田墓地」に眠っている。
最後になりましたが、貴重な史料を提供していただいた新原秀紀氏と井上信也氏に厚くお礼申し上げます。