終戦直後の学校と校歌の改訂/故佐藤一夫先生(音楽)

終戦直後の学校と校歌の改訂

(百周年記念誌「学校編」より)


佐藤一夫先生(音楽)


私が神奈川県立第一高等女学校に着任したのは、昭和22年の11月です。その年の4月に東京音楽学校の甲種師範科を卒業させられたのですが、兵役のため実質3年半しか在学せず、師範科とは名ばかりで、専門の音楽以外には、教員に必要な教育学・教科教育法・教育実習等のカリキュラムが無く、ただ教育法?として卒業予定者に作曲家の諸井三郎先生から2時間ばかり抽象的なお話を伺っただけ。それでも立派な教員免許状を頂いて、文部省の辞令でやってきたわけです。校長先生から「あなたは若いから、まず下級生あたりからどうです。」と言われ、先任の田村先生を紹介されました。


田村先生は当時、絶対音感教育で有名な方でした。本校はドイツ音名を使用していること、合唱を主としていること、音感教育がある程度成功していること等の現場説明を聞き、2年生(今で言うと中学2年)のクラスに連れて行かれました。
利口そうな可愛い女の子たちが目をクリクリさせて待っていました。田村先生が前に立ってちょっと手を振ると突然美しいハーモニーが沸き上がりました。ピアノで音を取らないでさっと美しい合唱になる。驚きました。見事に訓練されている。その時私は、これならやって行ける。要するに教えるのではなく、この子たちと一緒に「音楽をやれば良いのだ」と自信を持ちました


さて、当時はアメリカ占領軍の軍政下にあり、音楽科に対しても大変厳しく、従来の教科書や教育図書、文書は破棄。これに背いた学校は校長以下重い処罰を覚悟しなければなりませんでした。GHQの指令に反しない無難の曲だけを集めた最後の国定教科書「中等音楽」1・2・3が発行されたのが昭和22年の7月です。そんな混乱のさなか、教育行政局長のマックマナス中佐が本校の視察に来る事になり、職員は残っていた危なそうな文書を焼いたりして大騒ぎになりました。職員会議で歓迎のアトラクションにコーラスをということになり、簡単に引き受けました。
しかし、得意なレパートリーはドイツの民謡や学生歌が主で、これはとんだヤブヘビだと青くなりました。急遽、ヘンデルのメサイヤの中から2曲選び、女声合唱に編曲してハレルヤを加えて演奏することにしました。


楽譜作りが大変で、紙のない時代ですから、各科のテスト用紙を廻してもらってプリントしました。練習はあまりできなかったのですが、3年生の小柄な生徒の指揮で全校生徒が英語で見事に歌いました。私はとても嬉しかったのですが、アメリカ軍人たちも大感動で、視察は無事にすみました。皆が帰ってしまったあと、音楽研究室を整理していたら、隅のほうに暗幕に包まれた荷物がある。開いてみると皇国軍歌集とを始めとして、明治時代からの教科書が一山出て来た。コーラスのお陰で助かった!重労働3ヶ月などの刑に処せられるかもしれなかった!

 

そんな状況でしたから、

教への道の みことのり
我等が胸の かがみなり

と教育勅語を手本として毎日励む、などという校歌はとんでもない危険物です。

 

しばらくして男子生徒が入ってきた25年。校歌の作詞家である佐佐木信綱先生に、民主主義時代に沿うよう歌詞を改訂していただくことになり、国語科の高木東一先生と熱海梅林の近くにある佐佐木邸にお伺いしました。先生は機嫌よく話を聞いてくださり、私達はほっとしました。問題の所

学びの道に いそしむは
我等が日々の つとめなり

となって堂々と歌えるものでした。

 

しばらくして今度は曲が問題になりました。歌いにくい、暗い、スポーツの対抗戦の時など景気が悪い、元気が出ない等々。またベトナム戦争の時代、フォークソング、グループサウンズ全盛の時代となり、校歌は生徒が歌う為のもの、親しみ易く、清新なリズムとメロディーで口ずさめるものと要望が強くなって、新設高校のこのような校歌がマスコミをにぎわすようになりました。そこで再度「校歌を考える委員会」で検討。そして結論は現校歌を維持。

 

作曲の幸田延女史は東京音楽学校の教授で明治18年に16歳の若さでウィーンに留学し、日本人で初めて西洋、音楽を究め、身に付けた人物。滝廉太郎をはじめ、初期の作曲家は皆、この先生の弟子である。しかし作品は器楽曲に限られ、唯一の歌曲の、この校歌はまさに音楽史上の文化財と言えるものです。短い32小節の曲の中で6回も転調しています。
幸田女子は多感な少女時代に、ウィーンのロマン主義、19世紀末文化をいっぱいに浴びてブラームス・マーラー・シュトラウス・シェーンベルク、美術ではクリムト・エンゴシーレなどの活躍をまのあたりにしています。

 

この校歌の短い中に殆どデカダンスとも言える多数の技法を駆使して、しかも気品を失わず、形式(フォルム)を崩さず、見事に小宇宙を構築していることに驚かされます。
国家・団歌・校歌などは、面白いとか、楽しいと言うよりも先ず象徴なのです。シンボルですから、河・海・山・野・歴史等を歌い、何かを讃えると言う月並みなものが長持ちします。シンボルなら第一級の作家による、文化財的な作品が良いでしょう。平沼高校校歌は、校舎が変わり、人も変わっていく学校の歴史の中で、唯一伝統を保持していくシンボルなのです。


《1947 (昭和22)年から1982 (昭和57)年在職》

 

 

 

 

2023年07月25日|公開:公開