校歌の制定
(百周年記念誌「真澄会編」より)
2期 末木 美衛
県立として始めて高女が開校された時、あの広大な敷地を御寄附になったのは岡野欣之助氏でした。やがて女子師範が併立され、寄宿舎や女師の校舎、附属小学校等運動場は、元より実に広大な土地です。大正年間、時の摂政の宮であらせられた、現在の天皇陛下の行幸を仰いだ名誉ある学校となりました。それにつけても岡野欣之助氏の御志を忘れてはならぬと思います。私は補修科から明治三十八年上野の音楽学校に入学、四十二年に卒業その年に母校に勤務、高女と女師を兼務することになりました。大正の大震災で校舎が傷み、女師は立野の丘に鉄筋の立派な校舎が新築されました。その為、私は女師本務となり、立野に移り、岡野町をはなれたのでした。昭和二年と思います。明治四十二年から昭和まで思えば長い間でした。以下音楽の立場から思い出をたどりましょう。
佐佐木信綱 作歌
幸田延先生 作曲
校歌
一、教えの道のみことのり 吾等が日々のをしえなり
み空ににほふ富士の嶺 吾等がむねのかがみなり
二、百舟千舟つどひよる 港のさかえきはみなし
栄ゆる御代のみ恵に 御国の花と咲きいでむ
前に作曲をお願いしてあったので、幸田先生のお宅へいただきにあがりました。早速聞かせていただいた曲は、第一の歌詞と第二の歌詞の間に立派な間奏曲を作曲され、歌の部分も間奏の部分も、実に大曲で、コーラスやオーケストラで演奏される大曲でした。併し先生は中等学校で歌うのだからとやさしい方の曲を下さいました。これも第一の歌は、おごそかに立派に、第二の歌は、明るく勇ましく、それぞれ歌の心を充分表わした立派な曲です。この歌詞にもあります通り、西には富士山がのぼる朝日に映えて崇高な姿を見せ、北には小高い丘が寒風を防ぎ、宏大なだけでなく、校地としてこれ以上の土地はないと信じます。感謝です。
その頃、天長節は厳粛を守り、地久節は式の後学芸会を催し、日頃習得した中からピアノ独奏、合唱、伴奏から指揮まで生徒が致しました。また、余興として謡曲や仕舞など出た事もありました。
さて、もう一つ忘れ得ぬ事は、宮城道雄様のお宅へ伺った事です。矢張り学芸会の余興として演奏をお願いに上ったのです。先生のお部屋には立派なピアノが置いてあり、先生は例によって、いとも物静かに応待され、出演をお引き受けくださったのでした。当日は数人のお弟子様方と来られましたが、まずお箏は普通のより短く台の上に据えられ、弾く人は腰掛けて引くのです。その頃として初めて見たのです。、中に一面五十紡位の巾の広いのがあり、低音を出すようになって居るのです。さすが立派な演奏で感心させられました。
在来の日本音楽は大体に於て、リズムに変化を与えることに重きを置き、替手といっても大体に於いてリズムの変化に過ぎません。西洋音楽はリズムは勿論ですが、それだけでなく、音の重なり、つまりハーモニーが最も大切です。宮城様の作曲は、この大切な条件を充分備えたもので、さすがと感服いたしました。惜しい方を亡くしました。
その頃箏曲山田流では、音楽学校の今井慶松様、盲学校の久本玄智様、その他には萩岡松陰韻様、高橋栄様など、皆それぞれ大家でしたが、宮城道雄様は全く行き方のちがうお試みでした。もっと永らえて、居られたらきっと素晴らしい作曲をなされたでしょうと惜しまれてなりません。
もう一つ書かねばならぬことは開校式の歌です。
一、思ひに初めて年月長ながく かけし望みのいとうれしくも
結びて開くこの窓の 日もうらうらと照る妙や
霞がくれにほほ笑む見れば 野山を今日や よろこべる
二、今日しも開く教しへの庭に 立つ若草のその妻が根は
いや生い茂り年の葉に 岡野の里のをかしくも
おのがさまざま花咲き出でて めでたき実を結ぶべき
この歌にある通り、母校は岡野町に建設された高校です。平沼ではありません。平沼は線路から南で今平沼小学校があります。
後年平沼高校としたのは、学校の歴史を知らない人のなさった事です。今からでも結構です。岡野高校と改めて学校の所在を明らかにし、永久に栄えてください。そして岡野欣之助氏の霊に報いてください。心よりお願いいたします。
(「花橘」70周年誌より)