大震災、そして 横浜髙島屋/真澄会副会長(当時)松永 弘子(57期)

大震災、そして 横浜髙島屋

真澄会副会長 松永 弘子(57期)

  2011年3月11日午後2時46分、世界中の厄災を一手に引き受けたような、あの「東日本大震災」が起こった。
  その時、私は入学説明会出席のため、平高体育館の中にいた。突然、大きな横揺れが始まった。時折みしみしと音をたて、体育館全体がしなうような感じの揺れはとてつもなく長く感じられた。それでも体育館内の生徒達は静かに、着席のまま、先生の指示を待っていた。学校からの話は「東北地方に地震、横浜は震度3(その後、気象庁は訂正)」であった。大きな揺れが静まり、終了間際だった説明会は、何とか終了した。
  震度3ではそれ程ではないか、と校門の外に出ると電線が揺れ、町は不気味に静まりかえっていた。携帯は繋がらず、コンビニの公衆電話には多くの人が並んでいる。これはただごとではない、と不安が一気に湧き上がる。
  ともかく駅に行けば何か情報が得られるだろうと横浜駅に向かった。JR、地下鉄、私鉄とも全線運休。東北方面に大地震が起きたとアナウンスしているようだったが、詳細は分からない。駅構内はごった返し、公衆電話も長蛇の列。タクシーもバスも乗り場は人であふれていた。我が家まで徒歩で帰るのはとても無理で電車の復旧を待つしかない。
駅売店でパンとペットボトルを買い、「待ち」の長期戦に備える。
  まず、トイレ、公衆電話のある所として、思いついたのはデパートであった。駅前の髙島屋へ入った。トイレには人が並んではいたが、店員の誘導で列はスムーズに動いていた。2台ある公衆電話もテレカ専用の方は比較的すいていて、いつも定期入れの中に入れておいたカードが役にたった。自宅に夫がいて、「停電もなく、家の中の被害もない。嫁さん達とは連絡が取れた。息子たちとはまだ連絡がつかない」とのこと。まずはほっとする。
  「5時で閉店」の店内放送があったが、店の外に出るような指示はない。1階化粧品コーナー前のソファーがひとつ空いているのを見つけ座った。隣には80代とおぼしきご夫婦が座っていて、電車が動くまで待っているとのこと。
  時々、店内放送で横浜駅の鉄道運行状況が伝えられ、そのうちに大型テレビがフロアーの真ん中に設置された。テレビに刻々と映し出される津波の押し寄せる映像に大変なことが起こったとの実感が迫ってきた。情報がきちんと入るのが何より心強かった。
  店内は明るく、暖房も効いていて、水、乾パン、バナナが配られるなど、デパートの対応はとても親切なものであった。そのうちに、東急、相鉄などが動きはじめたが、利用出来るものではない。
  一期一会と、お隣に座ったご夫婦と話を交わして時を過ごす。明け方、京急が始発から動くとの店内放送があった。そのご夫婦も京急利用で同じ駅までと分かり、一緒に帰ることにした。3人でデパートの裏口に向かうと、職員の方が見送りに出て「お気を付けてお帰り下さい」と声までかけてくれた。
  それにしても、デパートの避難者に対する対応は行き届いていた。基本的な情報と食糧・水を提供してくれるとともに、時折職員の方が声かけしてくれるなど、安心感も与えてくれた。1階フロアーには高価な商品も置いてある。警備員の巡回があるとはいえ、その場所に避難させてくれるのはなかなか出来るものではない。避難者の方々も冷静で、譲り合いながら夜を過ごしていた。
  さて、思いがけずに一夜を過ごすことになった「横浜髙島屋」との縁は、昭和34年10月、横浜駅西口にこのデパートが「髙島屋横浜店」として開業された時に始まる。
平高3年生の秋である。卒業までの数ヵ月、毎日髙島屋の脇を通って通学することになる。
  当時は買い物と言えば、伊勢佐木町で、老舗デパートが二つあったがめったに行く場所ではなかった。通学路にデパートがある。脇を通るたびにわくわくする気分になった。
  昭和32年の入学当時、西口の商店街の記憶は「相鉄名品街」というショッピングアーケードのみである。開発前の西口は相鉄の砂利置き場であったとのことであるが、その頃の状況は知らない。相鉄が開発を重ね、現在の西口繁華街を形成している。一時「三越」「岡田屋」と三つあったデパートは、今は「横浜髙島屋」のみが営業している。
  このデパートとの係わりは、高校生の頃の高揚感に始まり、人生の節目節目での買い物の場であり、子どもが小さい頃は屋上遊園地がお出かけの場であり、そして今はその存在そのものが何か安心した気持ちにさせてくれる。
  今回、帰宅難民とはなったが、デパートに行ったことで、大変な思いをしなくて済んだ。被災地の方々を思うと、私のあの一晩のことはどうということはない。ここで過ごしたことも縁のひとつであろうか。
  後日、折あってデパートの方にお礼の言葉を言うと「いかに不自由なく過ごしていただけるかと心をくだいた」とのこと。
  大変な時にこそ、分け隔てなく受け入れる心、これは単にデパートという一企業でなく、すべてのものに通じることであると感じた。
  なお、平沼高校ではあの日、入学説明会出席者や近隣からの避難者約150人に小ホールを開放し、避難者から感謝の言葉が寄せられたとのことである。
  「東日本大震災」は今の段階でもまだ復興への道筋は見えているとは言い難い。
  この地震での百人百様の体験、感じたことが良き未来に繋がる事を願う。

「花橘 第62号2011年度」

2021年03月11日|公開:公開