「県立高女」の誕生
「県立高女」の誕生
幕末いち早く外国に門戸を開いた横浜を擁した神奈川県であったが、中等教育(男子の通う中学校・女子の通う女学校)に関しては他県に比べて遅れをとっていた。東京に近く、東京の学校に学ぶことで足りるとする風潮があったことと、県内には江戸時代に主要な藩がなく、地方他県のような藩校の系譜がなかったことなどが影響していた.
女子教育に関しては、いくつかののミッションスクールが明治初期から特徴ある教育をおこなっていたが、いずれも私学であり、公立学校ではなかった。
1896(明治29)年に埼玉県が県立中学校を開校すると、全国で神奈川県だけが取り残される状況となり、1897(明治30)年、ついに神奈川でも県立中学校が開校することになった。「神奈川県尋常中学校」、現在の希望ヶ丘高等学校である.
本校百年の歩みは、1900(明治33)年10月10日に始まる。本県最初の高等女学校として設立された「神奈川県高等女学校」、まもなく改称された「神奈川県立高等女学校」である。
当時の教育課程をみると、裁縫や家事に多くの時間をあて、男子の通う中学校に比べると外国語や数学の時間が少ない。しかし本校は、当時の高等女学校としては他県のそれにはない進歩的な教育方針をとっていた.他県では随意科とされていた英語を必修科目とし、また制服を採用したのである。当時、「県立高女」の生徒であることは誇りであり、その制服姿は羨望の的であった。また、その卒業生であることは、"良妻賢母"の証とされた。
その教育内容は、県下秀逸の才媛にふさわしく高度なものであり、学芸会や体育祭などの学校行事も当時の横浜では有名で、新聞紙上でも絶賛されたという。また、女子の旅行が容易でなかった時代にもかかわらず、長期に渡って遠方へ修学旅行に出かけるなどの先進的な試みも多く取り入れられていた。
また、本校には小学校教員を養成するための女子師範学校が1907(明治40)年から1927(昭和2)年まで併置されていた。この女子師範学校はその後再編され、現在の横浜国立大学教育人間科学部となっている.
戦前においては、義務教育の小学校を卒業して上級学校へ進む場合、男子は中学校、女子は高等女学校に分かれていた。なお、男子はさらに大学に進むことができたが、女子には制度上の大学に進む道が閉ざされていた。
【学校創立のころ】
1899(明治32)年に高等女学校令が制定され、神奈川県にも高等女学校が誕生することになった。
校地選定に当たってはさまざまな候補地があげられたが、最終的に、橘樹郡保土ヶ谷町岡野新田の
岡野欣之助氏所有地三千坪が選ばれた。この土地は「教育のためなら」という岡野氏の厚意で、寄付により提供された。現在、本校が建っている場所である。県立中学校(現希望ヶ丘高等学校)に遅れること3年、こうして、神奈川県で初めての県立高等女学校が設置を認可された。1900(明治33)年10月10日のことである。
岡野新田は、欣之助氏の祖父良親氏と父良哉氏が海に堤を築いて埋め立て、耕地としたところである。開校当時には現在の場所にまだ横浜駅はなく、西ロー帯は海であった。帷子川のほとりに木造二階
建ての本校校舎がぽつんと建ち、校地のすぐそばまで海や沼が迫っていた。
校舎の前は沼だの葡萄棚だので、後ろは草原、小高い浅間の岡でした。左右は岡野さんの別荘、テニ
スコートでそこら一帯には数軒の家が点在するばかりでした。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)