第一高女時代≪戦時体制への傾斜≫

1931年(昭和6年)

第1回耐久徒歩〔学校から鎌倉駅まで33㎞余〕(4/25)

排球部、関東女学校競技大会・優勝(5/24)
河村静子、県女子中等学校水上競技大会で50m、25m・優勝(9/5)
河邊校長退任、川崎市立高等女学校長・滋賀貞、第5代目校長に就任(9/16)

排球部、第1回全国女学校体育大会・優勝(9/20)

秋、全校で「満州」の兵士に慰問状(4400通)を送る。
籠球部、県選手権大会・優勝(12/19)

1931年:満州事変勃発

1932年(昭和7年)

 

この週から週番制度を実施(4/18)
5年生、関西方面へ修学旅行に出発〔7泊8日往路は横浜から竜田丸で神戸へ船旅:船旅は1939年まで〕(5/21)

初めて排球(バレーボール)部が合宿を行う。〔作法室にて〕(8/23~31)
籠球部・排球部、全国女学校競技大会・準優勝(10/9)
合唱団ら、東京中央放送局から合唱・器楽演奏などを放送(10/20)

滋賀校長退任、県立小田原中学校長・船越文教、第6代校長に就任(11/5)

庭球部大倉・久保田組、県下女子一般選手権・優勝(11/23)

1933年(昭和8年)

真澄会の事業として「専攻部」設置(4/10)
第1回キャンプを辻堂海岸で行う。費用は90銭〔以後恒例化〕(6/10)
学校時報第1号発刊(6/15)
排球部、庭球部坂本・清水組が県下女子中等学校球技大会・優勝(7/1)
籠球部、明治神宮体育大会県予選・優勝(9/30)

1933年:国際連盟脱退

1934年(昭和9年)

専攻部第1回終了式(3/15)
専攻部研究科〔修業年限1年〕を新設、本年度生徒23名(4/1)
排球部、関東女子中等学校大会・優勝(5/27)
修学旅行、4年生は日光・松島方面、3年生は静岡方面、2年生は箱根・熱海方面(6月)
籠球部、県下女子球技大会・優勝(6/18)
県女学校水上競技大会で、須藤光代が自由形50mで1位、同100m・200mで河村静子が1位、背泳50・100mおよび継泳400mで藤田芳子1位・大会新(8月)
音楽映画部にヴァイオリン研究部発足
展覧部に美術研究部・書道研究部発足

1935年(昭和10年)

創立35周年記念式挙行・園遊会(5/5)
籠球部、県下女子球技大会・優勝(6/22)
籠球部、第8回神宮大会・準優勝(10月)
神宮水上競技大会兼全日本選手権大会決勝で、須藤光代が自由形200・400mでそれぞれ3位・4位、河村静子が背泳100m・4位(10/6)
専攻部教室落成(10/7)
県下女子中等学校体操部会で4、5年生約200名がファウストを実演(11/16)
第1回スキー旅行〔長野県菅平〕(12/25~29、‘39年まで)(戦前は37年まで)(資料により記録が異なる)

1936年(昭和11年)

排球部、県4人制排球大会・優勝(6/3)
籠球部、県春季女子籠球大会・優勝(6/6)

在満州将兵に全校生徒から慰問状各5葉ずつ発送(7/24)
相澤倫子、女子中等学校競技大会で3段跳びに優勝(10/6)
真澄会主催、三浦環独唱会〔開港記念会館〕(10/16)

1937年(昭和12年)

船越校長退任、横須賀高女校長・長澤恭治、第7代目校長に就任(3/31)

兵士慰問資金として職員生徒の献金を東日横浜支局に委託(7/24)
全校生徒各自の防毒マスクを作製(9/13)
全校生徒による伊勢山皇大神宮への戦勝祈願や防空練習が始まる

第1回防空訓練(9/18)
石川清教諭〔理科〕出征送別式、全校生徒横浜駅まで見送る(10/21)
荒波寛一教諭〔英語〕出征送別式、全校生徒横浜駅まで見送る(10/25)(荒波教諭は翌年戦死)

防毒マスクや防空訓練、ますます戦争が激しくなってきたのですね。

先生方も出征されたのですね。

国旗掲揚式〔この日から始業1時間前に国旗が掲揚される〕(10/30)

横須賀海軍病院に慰問(12/18)

1937年:日中戦争勃発

1938年(昭和13年)

校旗が制定される(2/11)
本校学校報国団が結成される。結団式(4/22)
排球部、県4人制排球大会で優勝(4/29)
宇都宮・三浦両教諭、生徒製作の慰問品を臨時陸軍病院に慰問(5/20)
支那事変1周年記念式〔報国団行進、遺族慰問、廃品回収など〕(7/7)
夏季集団勤労作業始まる〔開墾、教室壁塗り清掃、白衣縫製、陸軍病院造園〕(7月)

運動部宿泊修養会、籠球・排球・庭球・卓球・陸上部参加(8/16~27)

本校報国団、学校付近の戦没者遺族を慰問(10/10)
故荒波寛一教諭学校葬〔9月武漢攻略戦で戦死〕(12/10)

1938年:国家総動員法公布

1939年(昭和14年)

建国祭大行進に参加(2/11)
生徒の慰問文1580枚を発送(3/27)
薙刀が正課となる(4/1)
排球部、県4人制排球大会・優勝(4/29)
3年生修学旅行〔この年から香取・鹿島方面〕(5/19)
県女子中等学校球技大会で籠球第1種〔1~3年〕に優勝(6/24)
支那事変2周年行事〔戦没者遺族慰問、報国団行進など〕(7/7)

夏休みが「夏季心身鍛錬期間」とされ、農家での農産拡充集団勤労作業が開始される。(8月)

農産拡充集団勤労作業として、4年生が長津田で養蚕 (8月)、3年生が菅田で収穫手伝い(10/31)
県女子中等学校陸上競技大会で次の種目に優勝:松岡圀子が60・100m、田中博子が200m、三枝浜子・小林純子が籠球投、団体籠球投〕(9/30)
近藤美代、県下武道大会で女子中等学校弓道1位(11/19)

1939年:第二次世界大戦勃発

1940年(昭和15年)

紀元2600年祝賀報国団行進・市主催建国祭行事に参加(2/11)

作法室に神棚を新設し天照大神を祭る(2/11))
創立40周年記念行事挙行〔学校関係物故者慰霊・勤続10年以上職員表彰〕(5/4)
農産拡充集団勤労作業として5年生が長津田で養蚕手伝い(6/15)
籠球部、県女子中等学校球技大会・優勝(6/22)
創立40周年、紀元2600年記念行事〔展覧会・体育大会・音楽会・旗行列等〕(10~11月)
県女子中等学校陸上競技大会60m・200m・200mリレーなど5種目で優勝(10月)
学級増加〔定員1250名〕
排球部、県球技大会で優勝、東亜大会で準優勝

「花橘」紀元2600年奉祝・創立40周年記念号発行(12/27)〔以後休刊〕

1941年(昭和16年)

校友会を「報国団」に改組。校友会に「国防部」「訓練部」新設(4/22)
排球部、関東女子中等学校排球大会・準優勝(6/1)
修学旅行、5年生は関西聖地参拝旅行となり3泊4日に短縮、他学年は1日遠足となり翌年からすべて中止(6月)
本日から第6校時を学年別鍛錬時間とする(9/15)
学校特設防護団の防空訓練実施(10/15)
宣戦の詔勅奉読式、戦勝祈願のため伊勢山皇大神宮参拝(12/11)

1941年:太平洋戦争勃発

1942年(昭和17年)

東側隣地を購入。園芸実習地・勤労作業場にあてる。

東側隣接空地を購入し校地は6933.14坪に

弓道場・テニスコート新設予定(1/2)

軍需工場への勤労動員が始まる(2月)
5年生100名、横須賀田浦の海軍工廠造兵部・軍需部に勤労動員(2/6~10)
学則改訂〔生徒定員1250名となる〕(7/7)
英語が必修からはずされ随意科目となる(9/1)
新5年生、陸軍兵器補給廠〔長津田〕に勤労動員

1943年(昭和18年)

学区制が導入される(1/15)

2年生、森永製菓〔鶴見〕に勤労動員(3月)。5年生、同勤労奉仕(5月)

中等学校制度改革により修業年限を4カ年とし専攻科を置く(4/1)
テニスコートは菜園となり農作物(落花生・甘藷等)を栽培

関連リンク:花橘52号 連載(1) 先輩セミナー2001 篠崎孝子さん(45期) 有隣堂会長「校庭に畑とプール」

栄勉教諭、堀順次郎教諭(ともに国語)出征し、戦死

お菓子工場での勤労動員。別の学校の生徒の中には、工場のお菓子をお腹をすかせた弟や妹に持って帰りたいと思った生徒もいたそうです。けれど、第一高女たるもの、絶対にそんなことはいたしませんとしっかり働いていたそうです。

1944年(昭和19年)

専攻科を廃止(4/1)
3年生以上、住友通信工業に勤労動員(6月)
防空貯水槽兼用水練場(プール)地鎮祭〔1、2年生工事に協力〕(6/29)
秋から、2年生、森永製菓に勤労動員

この年から、2年生以上は勤労動員に駆り出される

防空貯水槽兼プールが竣工するが、プールとしての使用は見送りとなる(10/18)

1945年(昭和20年)

第42回卒業証書授与式、5年生と共に4年生も繰り上げ卒業〔警戒警報発令で急遽、式は終了する〕(3/28)
学校の工場化〔教育施設を撤去、工場機械を搬入〕始まる(4月)
建物疎開のため木造校舎を取り壊す〔雨天体育場・修養道場〕(4月)
長澤校長退任、小田原中学校長・中原豊蔵、第8代目校長に就任(5/22)

横浜大空襲、本館以外焼失、残存校舎は救護病院に当てられる(5/29)

3年生、松屋百貨店〔吉田橋詰〕と海軍航空技術廠支廠〔金沢文庫〕に勤労動員(6月)

4年生、石川島航空〔杉田〕に勤労奉仕(6月)
戦争終結の「玉音放送」(8/15)


授業再開(10/1)
教科書回収に関する覚書示達
高木女子商業学校に4教室貸与〔翌年7月まで〕



関連リンク:花橘52号 連載(1) 先輩セミナー2001 篠崎孝子さん(45期) 有隣堂会長「横浜大空襲」「勤労動員」


関連リンク:三木弘子さん(39期)の横浜大空襲の手記と後日談

関連リンク:戦争体験談(中川小学校での講演会)/荒武千恵子(45期)

1945年:敗戦