母校のあゆみ一覧

母校のあゆみ

母校のあゆみ

はじめに

私たちが学ぶ神奈川県立横浜平沼高等学校は、1900(明治33)年、神奈川県で初めての県立女子中等教育機関として設立された。
創立当初の「神奈川県高等女学校」以来、「神奈川県立高等女学校」、「神奈川県立横浜第一高等女学校」、「神奈川県立横浜第一女子高等学校」、「神奈川県立横浜平沼高等学校」と名称は変更されたものの、2000(平成12)年には創立100周年を迎えた。

本校の歴史をたどることは、そのまま20世紀の歴史をたどることでもある。本校の歴史について学ぶことによって、生徒諸君に20世紀という時代についても学んでほしい。それがこの冊子のねらいである。
また、それぞれの時代に本校で過ごした人々の思いを偲ぶ縁(よすが)として、当時の『花橘』や周年記念誌に掲載された証言をできるだけ紹介した。本校創立以来、3万人を超える人々がさまざまな思いを胸にこの学び舎を巣立っていった。
そのことを心に留め、そうした人々の思いの上に現在の自分があることを感じてほしい。それがこの冊子の願いである。

2022年05月19日

「県立高女」の誕生

「県立高女」の誕生

幕末いち早く外国に門戸を開いた横浜を擁した神奈川県であったが、中等教育(男子の通う中学校・女子の通う女学校)に関しては他県に比べて遅れをとっていた。東京に近く、東京の学校に学ぶことで足りるとする風潮があったことと、県内には江戸時代に主要な藩がなく、地方他県のような藩校の系譜がなかったことなどが影響していた.
女子教育に関しては、いくつかののミッションスクールが明治初期から特徴ある教育をおこなっていたが、いずれも私学であり、公立学校ではなかった。
1896(明治29)年に埼玉県が県立中学校を開校すると、全国で神奈川県だけが取り残される状況となり、1897(明治30)年、ついに神奈川でも県立中学校が開校することになった。「神奈川県尋常中学校」、現在の希望ヶ丘高等学校である.
本校百年の歩みは、1900(明治33)年10月10日に始まる。本県最初の高等女学校として設立された「神奈川県高等女学校」、まもなく改称された「神奈川県立高等女学校」である。
当時の教育課程をみると、裁縫や家事に多くの時間をあて、男子の通う中学校に比べると外国語や数学の時間が少ない。しかし本校は、当時の高等女学校としては他県のそれにはない進歩的な教育方針をとっていた.他県では随意科とされていた英語を必修科目とし、また制服を採用したのである。当時、「県立高女」の生徒であることは誇りであり、その制服姿は羨望の的であった。また、その卒業生であることは、"良妻賢母"の証とされた。
その教育内容は、県下秀逸の才媛にふさわしく高度なものであり、学芸会や体育祭などの学校行事も当時の横浜では有名で、新聞紙上でも絶賛されたという。また、女子の旅行が容易でなかった時代にもかかわらず、長期に渡って遠方へ修学旅行に出かけるなどの先進的な試みも多く取り入れられていた。
また、本校には小学校教員を養成するための女子師範学校が1907(明治40)年から1927(昭和2)年まで併置されていた。この女子師範学校はその後再編され、現在の横浜国立大学教育人間科学部となっている.

戦前においては、義務教育の小学校を卒業して上級学校へ進む場合、男子は中学校、女子は高等女学校に分かれていた。なお、男子はさらに大学に進むことができたが、女子には制度上の大学に進む道が閉ざされていた。

【学校創立のころ】
1899(明治32)年に高等女学校令が制定され、神奈川県にも高等女学校が誕生することになった。
校地選定に当たってはさまざまな候補地があげられたが、最終的に、橘樹郡保土ヶ谷町岡野新田の
岡野欣之助氏所有地三千坪が選ばれた。この土地は「教育のためなら」という岡野氏の厚意で、寄付により提供された。現在、本校が建っている場所である。県立中学校(現希望ヶ丘高等学校)に遅れること3年、こうして、神奈川県で初めての県立高等女学校が設置を認可された。1900(明治33)年10月10日のことである。
岡野新田は、欣之助氏の祖父良親氏と父良哉氏が海に堤を築いて埋め立て、耕地としたところである。開校当時には現在の場所にまだ横浜駅はなく、西ロー帯は海であった。帷子川のほとりに木造二階
建ての本校校舎がぽつんと建ち、校地のすぐそばまで海や沼が迫っていた。
校舎の前は沼だの葡萄棚だので、後ろは草原、小高い浅間の岡でした。左右は岡野さんの別荘、テニ
スコートでそこら一帯には数軒の家が点在するばかりでした。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)

2022年05月19日

明治、大正の制服

【「筒袖」制服の女学校一初代制服】

初代校長新原俊秀は、全国の女学校に先駆けて制服を制定した。この制服というのが「洋服または短袖、茶袴」。着物の柄は地味なものなら何でもよく、袴は海老茶と決められた。当時、挟を短くした「筒袖」は男性が着るものだったため、親にも生徒にも評判が悪かった。
当時筒袖は男の人が着るもので誠に恥ずかしく「この次は男みたいに坊主になるのかね。」とよくからかわれたもんです。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
女子が上級学校へ進んで学問をするだけでも特別な目で見られる時代、女性は控えめに慎ましくと願
う親たちにとって、「男勝り」の制服は心配の種だったようだ。そのためもあってか、第1回の入学試験は応募者が定員に足らず、無試験だった。
難しい試験があるといわれ、一生懸命勉強したのですが、試験場に行ったら、「実は入学希望者が募
集定員より少ないから入学試験は行わずに全部入学を許可いたします。(中略)といわれて拍子抜げ
した。(3期・卒業生『花橘』第37号)

【矢紺模様の制服一二代目の制服】

1915(大正4)年、二代目の制服が制定された。筒袖は元禄袖に変わり、着物の柄は矢緋模様となる。この矢緋模様に、「神奈川県立高女」の「神」、「女」、「川」を図案化したものがあしらわれた。筒袖は敏良」されたものの、着物の色合いや模様が自由であった初代制服に比べ、地質や柄はかえって地味になる。
そのころの神奈川県立高等女学校といえば、名実ともに県下第一番の女学校でした。でもその制服たるや、今の若い方々には想像もできまいと思われるようなものでした。近頃のように世間一般が派手な風潮でない四〇年以上も前でさえ、相当のお年寄りでなければ着なかったであろうと思われるほどの、細かいかすり模様の木綿の着物と袴でした。それは横浜では誰知らぬ人もない名門校のシンボルで、それを着ることは全く誇らしくさえありましたが、私が住んでいた東京では通用しませんでした。国電・東横線と乗り継ぐ間の人々の好奇に満ちた目、目、朝タ本当に恥ずかしく、つらい思いをして通学したものです。(28期・卒業生『70周年記念誌』)
群がる他校の生徒がサッと道を開ける、モーゼの海のような話もまんざら作りごとではなかったし、おぶい半天に仕立てている人を見かけると県立出の才媛だねと人びとはささやいた。(31期・卒業生『創立100周年記念誌』同窓会編)
教師からは、「皆が集まっていると、雑巾山のようだ」と椰楡され、修学旅行先ではあまりにも地味なために好奇の目で見られたこの制服も、神奈川県下では相当の威力を持っていた。

2022年05月19日
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