明治、大正の制服

【「筒袖」制服の女学校一初代制服】

初代校長新原俊秀は、全国の女学校に先駆けて制服を制定した。この制服というのが「洋服または短袖、茶袴」。着物の柄は地味なものなら何でもよく、袴は海老茶と決められた。当時、挟を短くした「筒袖」は男性が着るものだったため、親にも生徒にも評判が悪かった。
当時筒袖は男の人が着るもので誠に恥ずかしく「この次は男みたいに坊主になるのかね。」とよくからかわれたもんです。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
女子が上級学校へ進んで学問をするだけでも特別な目で見られる時代、女性は控えめに慎ましくと願
う親たちにとって、「男勝り」の制服は心配の種だったようだ。そのためもあってか、第1回の入学試験は応募者が定員に足らず、無試験だった。
難しい試験があるといわれ、一生懸命勉強したのですが、試験場に行ったら、「実は入学希望者が募
集定員より少ないから入学試験は行わずに全部入学を許可いたします。(中略)といわれて拍子抜げ
した。(3期・卒業生『花橘』第37号)

【矢紺模様の制服一二代目の制服】

1915(大正4)年、二代目の制服が制定された。筒袖は元禄袖に変わり、着物の柄は矢緋模様となる。この矢緋模様に、「神奈川県立高女」の「神」、「女」、「川」を図案化したものがあしらわれた。筒袖は敏良」されたものの、着物の色合いや模様が自由であった初代制服に比べ、地質や柄はかえって地味になる。
そのころの神奈川県立高等女学校といえば、名実ともに県下第一番の女学校でした。でもその制服たるや、今の若い方々には想像もできまいと思われるようなものでした。近頃のように世間一般が派手な風潮でない四〇年以上も前でさえ、相当のお年寄りでなければ着なかったであろうと思われるほどの、細かいかすり模様の木綿の着物と袴でした。それは横浜では誰知らぬ人もない名門校のシンボルで、それを着ることは全く誇らしくさえありましたが、私が住んでいた東京では通用しませんでした。国電・東横線と乗り継ぐ間の人々の好奇に満ちた目、目、朝タ本当に恥ずかしく、つらい思いをして通学したものです。(28期・卒業生『70周年記念誌』)
群がる他校の生徒がサッと道を開ける、モーゼの海のような話もまんざら作りごとではなかったし、おぶい半天に仕立てている人を見かけると県立出の才媛だねと人びとはささやいた。(31期・卒業生『創立100周年記念誌』同窓会編)
教師からは、「皆が集まっていると、雑巾山のようだ」と椰楡され、修学旅行先ではあまりにも地味なために好奇の目で見られたこの制服も、神奈川県下では相当の威力を持っていた。

2022年05月19日